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大阪地方裁判所 昭和40年(ワ)1158号 判決

原告 植原艶子 外一名

被告 行俊寿子 外一名

主文

一、被告行俊寿子は、原告両名に対し、別紙目録〈省略〉記載の一ないし二四の物件につき、大阪法務局北出張所昭和二八年六月一三日受付第九、一四〇号でもつて被告行俊寿子のためになされた昭和二二年二月二五日遺産相続を原因とする所有権移転登記の「取得者行俊寿子」を、「取得者持分二分の一行俊寿子、持分四分の一植原艶子、持分四分の一植原階子」とする更正登記手続をせよ。

二、被告寺田捨吉は、原告両名に対し、別紙目録記載の二四の物件につき、大阪法務局北出張所昭和四〇年一月一九日受付第一、一三七号でもつて被告寺田捨吉のためになされた同年同月一八日売買を原因とする所有権移転登記を、被告行俊寿子の持分二分の一についての所有権一部移転登記に改める更正登記手続をせよ。

三、訴訟費用は被告両名の負担とする。

事実

(当事者の申立)

原告両名

一、(一) 被告行俊寿子は、原告らに対し、別紙目録記載の一ないし二三の物件につき、大阪法務局北出張所昭和二八年六月一三日受付第九、一四〇号でもつてなされた遺産相続を原因とする所有権移転登記の抹消登記手続をせよ。

又は、

(二) 被告行俊寿子は、原告らに対し、別紙目録記載の一ないし二三の物件につき、大阪法務局北出張所昭和二八年六月一三日受付第九、一四〇号でもつてなされた遺産相続を原因とする所有権移転登記の「取得者行俊寿子」を、「取得者持分二分の一行俊寿子、持分四分の一植原艶子、持分四分の一植原階子」とする更正登記手続をせよ。

又は、

(三) 被告行俊寿子は、原告植原艶子に対し、別紙目録記載の一ないし二三の物件の持分四分の一につき、所有権一部移転登記手続をせよ。

被告行俊寿子は、原告植原階子に対し、別紙目録記載の一ないし二三の物件の持分四分の一につき、所有権一部移転登記手続をせよ。

二、被告行俊寿子は、原告らに対し、別紙目録記載の二四の物件につき、大阪法務局北出張所昭和二八年六月一三日受付第九、一四〇号でもつてなされた遺産相続を原因とする所有権移転登記の「取得者行俊寿子」を、「取得者持分二分の一行俊寿子、持分四分の一植原艶子、持分四分の一植原階子」とする更正登記手続をせよ。

三、被告寺田捨吉は、原告らに対し、別紙目録記載の二四の物件につき、大阪法務局北出張所昭和四〇年一月一九日受付第一、一三七号でもつてなされた同年同月一八日売買を原因とする所有権移転登記を被告行俊寿子の持分二分の一に限る所有権移転登記とする更正登記手続をせよ。

四、訴訟費用は被告らの負担とする。

被告両名

一、原告らの請求を棄却する。

二、訴訟費用は原告らの負担とする。

(請求原因)

一、別紙目録記載の物件はもと行俊家の家族行俊タツルの所有であつた。

二、行俊タツルは、昭和二二年二月二五日死亡した。同女は、夫行俊猪之助(同人は戸主であつたが、昭和一八年一二月三〇日隠居し、その長男豊広が家督相続し、右豊広も昭和一九年九月一八日死亡したため、その長女被告行俊寿子が家督相続していた。)との間に、長女フジ子・二女艶子・長男豊広・二男重夫・三男日出男および三女階子の合計六人の子を設けたが、長女フジ子は大正九年二月二四日死亡し、三男日出男は昭和一九年七月一八日死亡し、長男豊広も右のとおり死亡し(但し、同人は妻あいとの間に長女寿子と二女嬉子を設けていた)ていたので、別紙目録記載のタツル所有の物件は、遺産相続人として二女艶子(原告)・二男重夫および三女階子(原告)が各々持分四分の一の割合で、亡豊広の子である長女寿子(原告)および二女嬉子が代襲遺産相続人として各々八分の一の割合でそれぞれ相続したものである。従つて原告らは、別紙目録記載の各物件につき、各々持分四分の一の所有権を有する。

三、しかるに、別紙目録記載の各物件には、大阪法務局北出張所昭和二八年六月一三日受付第九、一四〇号をもつて、登記名義人を被告行俊寿子登記原因を遺産相続とする所有権移転登記手続が経由され、又、別紙目録記載の二四の物件には、被告行俊寿子から被告寺田捨吉のために前同出張所昭和四〇年一月一九日受付第一、一三七号でもつて同年同月一八日売買を原因とする所有権移転登記手続が経由されている。

四、よつて、原告らは、被告らに対し、申立とおりの判決を求める。

(被告らの認否)

請求原因一乃至三項の事実はすべてこれを認める。

(被告らの抗弁)

一、原告らは、昭和二二・三年ごろ、タツルの死亡によつて相続した別紙目録記載の各物件の持分各四分の一の相続分を放棄したものである。

即ち、昭和二二年二月二五日タツルが死亡した際、原告らを含む親類縁者の誰もがタツル名義の財産は当然行俊家の財産としてその家督相続人である被告行俊寿子が承継するものと考え、遺産分割の申出など全くなかつただけでなく、昭和二三年五月二七日右タツル名義の家屋一軒を売却処分したときのことであるが、豊広の妻あいが昭和二二年一〇月頃義父猪之助(当時猪之助が行俊家の財産一切を管理していた)の命を受けて右処分登記手続に必要な印鑑証明書等を貰いに原告艶子方(当時原告階子も原告艶子方二階に同居していた)を訪れ、「タツル名義の財産を処分するにつき相続分を放棄して貰いたい」旨申し入れたところ、原告艶子は「自分はタツル名義のものは一つとしていらないから自由にしてくれ。この印鑑を預けておくから一切の手続をやつて貰らつてよい」と心よく承諾して、「植原」の印鑑を右あいに預けたものであり、原告艶子は「猪之助に印鑑を預けてあるからそれで自由にやつてくれ」と申出(猪之助は原告艶子が結婚するとき持参金代りに同女のために同女名義で預金してこれを管理していたいきさつから、当時猪之助が同女の印鑑を保管していた)、進んで自己の相続分を放棄したのである。

その後、昭和二八年六月一三日猪之助の指示によりタツル名義の全遺産が被告行俊寿子所有名義に移転登記されたが、このように昭和二三年右家屋を処分した際原告らは相続分について一切の権利を主張しない意思表示をしていたので、この時は改めて原告らの了解を得ることなく、猪之助保管の右実印を使用し、右徳永重夫及び行俊嬉子についてはその頃同旨の承諾を得て被告行俊寿子単独名義に所有権移転の登記をなしたのである。

二、仮りに右相続分の放棄が認められないとしても、原告らの本件相続回復請求権は時効期間の経過により消滅した。

(一)  まず、相続回復請求権とは、真正相続人が他人によつて侵された相続権の回復を求める請求権である。だから遺産を構成する各個の権利の回復請求を総括的に行うのとは異り、遺産の包括承継そのものの回復を求める請求権である。故に、各個の相続財産を具体的に表示してその回復を求める必要はないのであるから、反面その請求権の時効により消滅する「相続権を侵害された事実を知つた」起算点についても、具体的相続財産の一つ一つについて侵害の事実を知る必要はない。そうでなければ、相続財産の一について時効消滅するが他については回復請求ができることになり、包括的請求権たる相続回復請求権の本質にもとることになる。以上の前提に立てば、「相続を侵害された事実を知つた」とは侵奪者が個々の相続財産を占有している具体的事実を知つたということではなく、特段の事情(他人の子として届出がなされていたため自己が相続人であることを後日に至りはじめて知つた等の事情)のないかぎり、相続開始を知つた日から五ケ年以上にわたり相続から除外されていながらなんら権利主張をなさず放置している場合には、相続開始の日をもつて消滅時効の起算点とするものといわなければならない。

(二)  ところで、原告らは、被相続人タツルが昭和二二年二月二五日死亡し相続が開始した事実は、前同日これを知つたものであるから、消滅時効の起算日は、右昭和二二年二月二五日である。

(三)  仮にしからずとするも、遅くとも昭和三〇年二月一五日(猪之助が死亡した時点)以後、被告寿子がタツル名義の不動産から生じる果実(賃料)を原告らを排除して収受していたことを原告らは知悉していたものであるから、同日より消滅時効が進行した。

(四)  よつて、被告らは民法第八八四条に基き時効を援用する。

(原告らの認否)

一、抗弁第一項の事実を否認する。

二、抗弁第二項(一)の法的主張は争う。即ち、相続回復請求権は一面において遺産の包括承継そのものの回復を求める権利であるが他方遺産を構成する各個の財産につき権利の回復を求める場合にも行使されるものであり、従つて遺産中のある特定の財産を占有(登記による占有も同じ)する者に対し自己の相続権(ないし所有権)に基いてその回復を求めるのもやはり相続回復請求権の行使である。

又、原告らは、昭和四〇年一月初旬に至るまで、タツル名義の不動産があることおよびタツル名義の財産につき原告らに相続権があることを知らなかつたものである。

よつて、被告らの消滅時効の抗弁は理由がない。

(証拠)〈省略〉

理由

一、原告ら主張の請求原因一乃至三項の事実は当事者間に争いがない。

二、そこで次に、原告らがその相続分を放棄したとの被告らの抗弁について判断する。

(一)  被告らは昭和二二年一〇月頃亡タツル名義の家屋一軒を売却処分するため行俊あいがこれに必要な登記書類を貰いに原告艶子方を尋ねた時、原告らより自己の相続分につき一切の権利を主張しない旨の意思表示を受けた旨主張し、これに符合する証人行俊あいの証言(一、二回)があるところ、なるほど成立に争いのない甲第三四号証の一、二、乙第一号証及び前掲行俊あいの証言によれば、亡タツル所有名義にかゝる大阪市東淀川区南方町五八二番一家屋番号同町第六二一番木造瓦葺平家建居宅一棟が昭和二二年八月一五日訴外河野直嘉に売却されたが、これにつき昭和二三年五月二七日被告行俊寿子、原告両名、訴外徳永重夫及び行俊嬉子の遺産相続を原因とする共同相続の登記が一旦なされ、しかるのちに訴外河野にその旨の同日付所有権移転登記が経由されていること、これに先立ち、原告艶子の印鑑届が昭和二二年一一月二七日、原告階子の印鑑届が同年一〇月三〇日にいずれも大阪市東淀川区長に対しなされていることが認められる。

(二)  しかしながら、別紙目録記載の各物件につき被告行俊寿子の単独相続による所有権移転登記がなされたのはその後五年余を経過した昭和二八年六月一三日であり、証人徳永重夫(一、二回)の証言によれば被告寿子は右相続登記の際右重夫に対し相続分の放棄を求め、その承諾を得たことが認められるのに、原告両名に対しては改めてその時に了解を求めその承諾を得ることをしなかつたことは被告らの自認(前掲行俊あい証人もこの点を認めている)するところであつて、成立に争いのない甲第七・八号証、第三三号証、前掲徳永証人、証人植原英夫、同植原三子夫の各証言及び原告階子本人尋問の結果に弁論の全趣旨を照合すれば、右昭和二二年当時は勿論それ以前に原告両名が行俊家にはかなりの資産があることは漠然と知つていたものの前記あい又は被告寿子よりタツル名義の遺産がどれだけあるかを具体的に聞かされたことも、又その遺産の管理処分について相談を求められたこともないこと、終戦後とは云え当時は未だ応急措置法も又新民法の施行もなく、原告両名は家督相続と遺産相続との区別を知らず、既に他家に嫁いでいたこともあつて、行俊家の財産について相続権を主張できるとまで思い及ばなかつたふしがあること、このため後叙認定のとおり原告両名は昭和三九年末頃まで別紙目録記載の各物件について自己らが共同相続人の一人としてそれぞれの相続分があることを知らされていなかつたこと、それだけでなく、原告階子は植原三子夫と昭和一二年頃猪之助夫婦の反対を押し切つて所謂駈け落ちのような形で事実上結婚したため、その結婚に際し、猪之助やタツルから持参金など貰えなかつたこと、植原三子夫は、終戦後農地改革や事業の蹉跌によつて所有していた農地を失つたうえ所持していた約金三〇、〇〇〇円の現金を使い果したため、一家は生活に窮するようになり、タツルの死後間もなくそれまで住んでいた借家を立ち退いて植原英夫・艶子夫婦の家に同居するに至つたこと、その前後から、植原三子夫は自転車に乗つて茶の行商をはじめたが、そのうえ痔疾を患つて自転車に乗れなくなつたため、茶の行商をやめざるを得なくなり、他方階子も昭和二三年二月一四日長男を出産した後健康を害したため働けなくなり、遂に昭和二三年一〇月一日には生活保護法による生活扶助を受給するに至つたことが認められ、右認定に反する証人河合市蔵・同行俊あい(第一・二回)の各証言はこれを措信しがたい。

(三)  又弁論の全趣旨によれば右タツル死亡当時においても同女名義の別紙目録記載の各物件は全部合わせると相当な価値を有するかなり厖大な遺産になることが認められるところ、原告両名がその相続分を放棄する代償として当時金品その他の提供を受けたことを認めるに足りる格別の証拠はない。

(四)  してみれば、たとえ原告両名が昭和二二年当時タツル名義の前記家屋一軒を売却処分するにつき同意していたとしても、それは該家屋に対する自己の共有待分権を第三者に譲渡することの承諾に過ぎず、これをもつて相当多数にのぼる別紙目録記載の各物件全部に対する共有持分権まで放棄したものと認めるのは困難であり、これと反対の趣旨の前掲あい証人の証言は前叙認定事実に照し未だ措信できず、他に被告らの全立証及び本件証拠によつても、原告両名が被告寿子の右各物件に対する単独所有を明示又は黙示的にせよ承諾したことを認めるに足りる証明はない。

三、次に被告らは原告らの相続回復請求権が時効により消滅したから、右時効を援用する旨主張する。

遺産相続における相続回復請求権は相続人が被相続人から承継した個々の相続財産(財産権)の主体たる地位に基き不法相続による侵害を排除して相続財産の回復を請求する権利であり、その不法相続による侵害は相続人でない者が相続人を僣称して相続財産を管理している場合であると、共同相続人の一人が他の共同相続人を不法に排除して相続財産を管理する場合であるとを問わないから、本件のように、共同相続人の一人が他の共同相続人を除外して相続財産につき単独所有権の移転登記をなし、その除外された他の共同相続人がその相続財産に対する共有持分権に基き、右不実の登記を実体関係に一致する真正な登記に改める更正登記手続を求めることは、相続回復請求権の行使に当るものと解すべきである。

ところで、

共同相続人が共に単純承認した場合でも、共同相続人の一人が遺産分割の成立するまで他の共同相続人のために事実上相続財産を管理している場合が多く、これが僣称相続人の場合と異り、共同相続人の一人が当該相続財産を独立して使用収益(少数持分権者でも自己の持分によつて共有物を使用収益する権限を有する)していても、当然他の共同相続人が右財産の引渡を求めることは許されず、一般に相続人間に親子、兄弟等の身分関係があるため、その他の共同相続人が遺産分割が行なわれるまで一方の共同相続人の右使用収益につき黙認乃至許容している場合が往々あり、後顧の憂いがないからこそその共有持分権を安心して放置していることがあり得ないわけではないから、この場合「相続権を侵害された事実を知る」とは単に共同相続人の一人が他の相続人を排除して相続財産の一部又は全部を管理収益しているだけでは特段の事情のない限り不十分であつて、共同相続人の一人が無断で個々の具体的財産を自己の単独名義に登記したとか、これを第三者に売却処分したとかして、他の相続人の特定の共同持分権を現実に侵害したことが明らかな場合に、これを知ることであると解すべく、又相続財産の一部につき共同相続人の一人によつて単独登記がなされ、これが他に転売されたからといつて、直ちにその余の相続財産の共有持分権までが侵害されたことにはならないし、相続財産の一部につき遺産分割が行われたり、又右一部の処分につき他の共同相続人の同意が得られることもあるから、右侵害の有無は個々の具体的財産毎にこれを知ることを要し、抽象的に自己が共同相続人の一人であることを知るだけでは足りないと云うべきである。

これを本件について見るに、前掲甲第八号証、前掲徳永、同植原英夫、同植原三子夫証人の各証言、原告階子本人尋問の結果に前叙認定事実を照合すれば、被告寿子はタツル死亡当時同女名義の遺産を行俊家の家継者として当然単独相続する心算で原告両名らにタツル名義の遺産がどれだけあるかを聞かせたり、これらをどのように処理するかにつき相談をもちかけたことは一切なかつたこと、原告両名らも旧民法下で家督相続と遺産相続の区別も知らず、家制度の観念にとらわれて自己の相続権など思い及ばなかつたらしく、行俊家にはかなりの資産があることを漠然と知つていただけで、タツル名義の遺産がどれだけあるかも格別知ろうとせず、昭和二八年六月当時別紙目録記載の各物件につき被告寿子名義に単独登記がなされたことも聞かされておらず、昭和三九年末頃になつてはじめて前記重夫より右各物件につき原告両名が相続分を放棄したものとして被告寿子名義に全部相続登記がなされている事実を聞き、はじめて右各物件につき自己らに共同相続人の各一人として相続分があり、且つ被告らによつて自己らの右各物件に対する共有持分権が侵害されていることを知つたことが認められ、右趣旨に一部反する前掲あい証人の証言は措信し難い。

しからば、原告両名において昭和二二年二月二五日タツルが死亡し単に相続が開始した事実を知り、又は昭和三〇年二月一五日当時右各物件より生ずる果実(賃料)を被告寿子が原告らを排除して収受していたことを知つていたとしても、右各物件につき自己に相続分があることを知らず、従つてその具体的財産の共有持分権の侵害事実を知らなかつたのであるから、いずれも右事実によつては未だ消滅時効が進行しないことは明らかである。従つて、前記昭和三九年末以降右消滅時効が進行を開始するにしても、昭和四〇年三月二二日本件訴訟が提起されたことは本件記録に徴し明らかであつて、これにより右時効は中断していると云うべく、被告らの右消滅時効の抗弁は理由がなく失当である。

四、以上の説示によれば、別紙目録記載の各物件につき原告両名及び前記徳永重夫は各四分の一、被告寿子及び訴外行俊嬉子が各八分の一の割合の共有持分を有していたところ、前掲徳永、行俊あい両証人の証言によれば昭和二八年六月一三日右重夫及び嬉子は被告寿子に対しその各持分を譲渡したことが認められ、これに反する証拠がないから、被告寿子は右各物件につき自己のためになされた前記単独所有権移転登記を原告両名の持分各四分の一、被告寿子の持分二分の一とする所有権移転登記に改める更正登記手続に応ずべく、被告寺田が別紙目録記載の二四の物件をたとえ被告寿子より買受けたとしても、被告寿子の有しない権利まで取得できない以上、被告寿子の有するその二分の一の共有持分だけを譲受けこれを取得したに過ぎず、被告寺田は右物件につき自己のためになされた前記所有権移転登記を被告寿子の二分の一の共有持分についての所有権一部移転登記に改める更正登記手続に応ずべき義務がある。

よつて、原告両名が被告らに対し右義務の履行を求める本訴請求は理出があるので、これを認容し、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 石川恭 大隅乙郎 重吉孝一郎)

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